Interview

これはBanksyじゃない。けど無視できない。【前編】Not Banksyとバンクシーの出会い

これはBanksyじゃない。けど無視できない。【前編】Not Banksyとバンクシーの出会い

text: BEHIND 編集部


ストリートアートの世界で、常に話題の中心にいるBanksy(バンクシー)。

その“影”を借りて生まれたようで、実はまったく別の思想を持った存在──、それがNot Banksyだ。

 

 

名前からしてすでに挑発的。

ジョークから始まった彼らのプロジェクトは、現代アートのヒエラルキーや消費される反体制アートへの痛烈な皮肉とユーモアに満ちている。

 

「Not Banksyの正体」とは?

そして、バンクシーとの距離感は?

 

前編・後編の2回にわたってお届けするロング・インタビュー、まずはNot Banksyのバックグラウンド、バンクシーとの出会いに迫る。

 

Q1.あなたのバックグラウンドについて教えてください。
僕は昔からクリエイティブだった。子どもの頃に得意だった数少ないことの一つが、絵を描くことだった。あと動物も大好きで、16歳くらいまでは「動物に関わる仕事をするか、アートをやるか」で迷ってた。

ロンドンでファインアート(美術)を学び、その後は北アイルランド・ベルファストのアルスター大学で修士課程に進んだ。その間、ロンドンでバンド活動もしていて、いつの間にかそっちの方に時間を使うようになった。修士課程の責任者は、バンドでの活動をコースの一部として認めてくれなかったから、修了1ヶ月前に退学したんだ。その頃には、もう「ファインアート」やアート界に対して完全に興味を失って、地下のノイズ/ロックバンドで演奏するようなもっと泥臭くてリアルな体験のほうが好きになってた。そこから15年くらい、ギャラリーにも行かなくなった。

その後は、カウンターカルチャーに特化した希少な書籍の取引を手掛けるになり、ビリー・チャイルディッシュやジェイミー・リード、ジミー・コーティとの仕事を通じて、再びアートに戻った。「aquarium(アクアリウム)」というスペースを運営して、この3の展覧会を定期的に開催してたけど、僕が本当に興味があったのは制作活動の方だった。だから版画や本、レコードやその他のエディションを制作・販売して、それで展覧会の運営資金もまかなってた。その後、第一次世界大戦中でツェッペリンL-13によって爆撃を受けた建物に拠点を移して、「THE AQUARIUM L-13」と名乗るようになり、数年後には現在のスタジオに移転。展覧会はやめて(制作で手一杯だったから)、現在は「The L-13 Light Industrial Workshop and Private Ladies and Gentlemen’s Club for Art, Leisure and the Disruptive Betterment of Culture(文化の破壊的改善を目指す、アートと余暇のための秘密クラブ)」として活動している。

この期間中、美術学校時代の友人アダム・ウッドと一緒に、STOT21stCplanBという名前で制作活動も始めた。アダムとは何年もバンドをやっていたから、自然な流れでビジュアル作品に戻ってきた感じ。とはいえ真面目なアートというよりは、もっとカウンターカルチャー的でロックンロール精神を色濃く反映した作品って感じ。それが「Not Banksy」プロジェクトの精神の出発点。

それとは別に、Harry Adams という名義で、もう少し伝統的で真面目な絵画制作も始めた。一時期はこの真面目な方に集中して、バカバカしいSTOT21stCplanB的な活動はストップしてたけど、今は両方を並行してやってる。

今でもビリー・チャイルディッシュやジミー・コーティとは一緒に仕事をしてる。残念ながらジェイミー・リードは数年前に亡くなってしまったけど、ジミーとビリーはそれぞれが“「フルタイムの仕事」みたいな存在”だよ。ビリーは国際的に評価されて画家として成功したし、ジミーとは『ザ・ピープルズ・ピラミッド』の建設という巨大なプロジェクトに取り組んでいる。
Q2.バンクシーとはどう出会ったんですか?
バンクシーに会ったのは一度だけ。僕らがジェイミー・リードの初個展をaquariumで設営していたときに、バンクシーが彼に挨拶しに来たんだ。ジェイミーは以前グラスゴーで彼と展覧会をやっていて、そのときに知り合ったみたいだった。一緒にギャラリー向かいのカフェでお茶を飲んだよ。
Q3.そのときのバンクシーの印象は?
当時は特に大騒ぎするようなことじゃなかった。まだバンクシーの名前が広く知られる前だったからね。彼は「自分たちで印刷機を買って、“Di-Faced note(偽紙幣アート)”を刷ってるんだ。で、それをビルの屋上から何千枚もバラまこうとしてる」って話してた。それが実現したかは知らないけど、アイデア自体はとても面白いと思った。
Q4.バンクシーとどんな仕事をしましたか?
直接的な関わりはほとんどないかな。イラク戦争に抗議する反戦アート展「Pax Britannica – A Hellish Piece」に、バンクシーが作品を貸してくれたんだ。それで僕らは、その展覧会のためにプリントのボックスセットを作って「Stop The War Coalition(戦争反対連合)」への支援金のために販売したんだよね。そのセットにはバンクシーのサイン入りプリントも含まれていて、当時は大きな話題になるとは思っていなかったけど、今じゃとても貴重なコレクターズアイテムになっているよ。

それから、バンクシーはジミー・コーティを呼んで、ディズマランドで暴動後の終末的なモデル村「The Aftermath Dislocation Principle(ADP)」を展示したんだ。僕はあんまり関与していなかったけど、それがきっかけでそのモデルを40フィートのコンテナに入れて、世界中の歴史的暴動現場を巡回展示することになったんだよ。
Q5.バンクシーとの1番の思い出は?
お茶を飲んだこと。